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アフリカの主な難民危機の歴史

1956 アルジェリア独立戦争で、数万人がチュニジアとモロッコに避難。現代アフリカ史上初の大規模な難民移動となった。UNHCRは1957年に援助に乗り出し、以後5年間でアルジェリア人26万人を支援。
1958 ギニアがフランスから独立。
しかし旧宗主国との緊張が高まり、100万人が国外へ逃れて難民に。
1960 アフリカ中部と南部で反植民地運動が激化。両地域全般で大規模な人口移動が発生。
1962 UNHCRがブルンジに事務所を開設。サハラ以南の危機に対応するためで、同地域初の事務所となる。
1966 アフリカ東部に広がるポルトガルの植民地、モザンビークで独立の気運が高まり、大量の人口流出が起きる。その後、やはりポルトガル植民地のアンゴラとギニアビサウでも政情が不安定に。
1969 大陸全土の難民急増にともない、アフリカ統一機構(OAU)が「アフリカにおける難民問題の特殊な側面を規定するアフリカ統一機構条約」を採択。
1972 アフリカ全土で人口移動が活発化。UNHCRはスーダン南部出身の難民20万人の帰還を支援したが、ウガンダではアミン大統領がアジア人4万人を追放。ブルンジでは大量虐殺がはじまり、17万人が近隣諸国へ避難。
1975 国連が西サハラの自決権を認めるが、歴史的領有権を主張するモロッコは、自決権を主張するポリサリオ戦線と衝突。元イギリス植民地の南ローデシアから難民15万人がモザンビークへ避難。
1977 「アフリカの角」で戦闘が起き、ソマリア人とエチオピア人300万人が避難。UNHCRは、近隣諸国でエチオピア難民の援助計画を開始。
1984 エチオピア大飢饉。死者は数十万人にのぼり、これを上回る数の人々がスーダン、ソマリア、ジブチに避難。
1989 国連が仲介した政治的和解で、南アフリカのナミビア支配が終わり、ナミビア人4万5000人が帰還。一方、リベリア内戦が起き、以後7年間に70万人が避難。
1990 ネルソン・マンデラ氏が釈放され、アパルトヘイト(人種隔離政策)に終止符の兆し。避難していた南アフリカ人多数が帰還を開始。
1992 モザンビーク包括和平協定が調印され、難民170万人が帰還。第二次大戦後に実施された難民帰還・再定着事業としては最大の成功を収めた。
1994 ルワンダのジェノサイド(民族大量虐殺)で100万人が死亡、170万人が国外へ避難。2年後に数十万人がルワンダ帰還を果たすが、多数がアフリカ中部の熱帯雨林のなかで命を落とした。
1997 シエラレオネの軍事クーデターをきっかけに、虐殺や手足切断が続発。40万人以上が避難した。
1999 21世紀を目前に控え、アフリカ全土で、難民をはじめUNHCRが対象とする700万人以上が故郷を追われている。
2000 各地で紛争が続いた。5月にエチオピアとエリトリアが再び開戦し、シエラレオネの反政府軍も新攻勢を開始。内戦によって、ブルンジから難民8万人、コンゴ民主共和国から難民8万5000人が生み出された。南部アフリア地域は大洪水で多大な被害を受けた。
2001 コンゴ民主共和国の状況は、1月のカビラ大統領死去を転機に改善された。エチオピアとエリトリアの戦争もPKOの介入で停戦。難民も帰還を開始。西アフリカでは選挙が無事に実施された国も多かった。しかし、南部アフリカや中部アフリカなどでは紛争が続いている。
2002 4月、27年間続いたアンゴラ内戦が終了。シエラレオネでの平和構築活動も一段落した。しかし、10月にはコートジボワールで紛争が起こり、リベリアにも影響を与えた。全体的に改善が見られたが、ブルンジ、スーダン、ソマリア、コンゴ民主共和国などでは問題は未解決。
2003 2003年3月、中央アフリカ共和国でクーデターが勃発、同国北部から約4万1000人が難民となってチャドへ避難した。その後も、政府軍と武装集団の衝突が相次いで起こり、チャドに暮らす中央アフリカ共和国からの難民(以下中央アフリカ難民)の数は約4万5000人まで増加した。
2004 2003年より、スーダン・ダルフール地方で、アラブ系民兵とアフリカ系黒人農民が水と牧草をめぐり衝突。その後、政府軍と、ダルフール反政府組織による民族紛争に発展。2004年には、ダルフール地方のスーダン人約20万人が難民となり、チャドへ逃れた。
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