私とUNHCR
難民誌34号(2005年 9月号)より抜粋
吉田 典古(よしだ のりこ)
UNHCRジュネーブ本部
ヨーロッパ局上級リソース・マネージャー
何となく、幼い頃から国際機関で働くのが夢だった。高校生の時に、犬養道子さんのタイのカンボジア難民キャンプに関する記事を偶然目にして以来、いつかはUNHCRで働きたいと思うようになっ た。津田塾大学を卒業して、アメリカのノースウェスタン大学院で政治学を専攻した。大学院在学中の夏、国連ニューヨーク部で世界各地の大学院生を対象にしたインターンシップに参加して、国連と実際の対面をした。
大学院卒業後、JPO(注)の試験に合格し、夢かない、1991年の10月に西アフリカの国、ナイジェリアのラゴス(当時は首都)にアソシエート・プログラム担当官として赴任した。 生まれて初めてのアフリカは、毎日、驚きと発見の日々。それまで電話は、必ず通じるものとばかり思っていたが、そうでないと気づくまでに時間はそうかからなかった。何度ダイヤルしてもつながらない電話を前にして、時間はかかるが、実際に自分で人に会いに行くのが一番効率的なのだと学んだ。今まで自 分が当たり前だと思っていた多くの事がそうではなく、自分の信じていた世界が180度ひっくりかえったような気がした。
最初にナイジェリアのリベリア難民キ ャンプを訪れた時、キャンプのスラム的な状況に愕然(がくぜん)とした。しかし、後になって水も電気もあり、テントでなくコンク リート製の建物に難民が住んでいるこのキャンプは、アフリカでは恵まれたキャンプといわれ、再び愕然としたのを覚えている。
確かに、ナイジェリア勤務の後、UNHCRの正規職員として、スーダン東部に赴任し、半砂漠のまん中に存在する住まいは萱(かや)葺きで、電気はなく、水も遠く離れた所にあるエチオピアやエリトリア難民のキャンプを見た時、本当にナイジェリアのリベリア難民キャンプは恵まれていたのだと実感し た。
その後、ジュネーブ本部での勤務となり、西アフリカ担当のデスクとして、おもに、リベリア、シエラレオネ、ギニアの緊急事態に対応した。そして、コートジボワールのアビジャン、アフガニスタンのジャララバード勤務をへて、現在再び本部でヨーロッパ局の上級リソース・マネージャーとして予算を扱っている。
UNHCRで働き始めて以来、「難民のために働いて偉いですね」とよくいわれる。 確かに難民のために働いているのであるが、実際には、難民から学び、得ることのほうが多い。手に持てるわずかな荷物を携えて、戦禍(せんか)や迫害をかろうじて逃れ、苦境のどん底でも生きていこうとする難民の生に対する希求には胸を打たれる。日本で受験に失敗して自殺した学生の話を耳にすると、無一文同然で故国を追われ、それでも生きていこうとする難民のたくましさに目を向けてほしいと思う。「難民はかわいそうな人」「難民を助けてあげている」というのは、ある意味では傲慢(ごうまん)な考えだと思う。
UNHCRの仕事は、数年ごとに異なる国への転勤が要求される。その度に、自分の世界を再編成し、新しい環境で新しい仕事に対応することが必要である。多くの勤務地では、生活環境が厳しく、治安もよくない。
私の最近の現場勤務は、アフガニスタンのアルカイダの元根拠地であったジャ ララバードである。2001年末のタリバン政権崩壊を受けて、UNHCRは翌年3月にアフガン難民の帰還を開始した。その1か月後、私は、職員約120人を擁するジャララバード・サブオフィスの所長として赴任した。活動環境は相当厳しかった。 治安が良くないため全てのUNHCRの国際職員は、指定された宿舎に住み、戒厳令が敷かれ、夜の9時には外出が禁止さ れた(治安が悪化した時は、7時にもなった)。現場へは、必ず車2台で行き、軍の護衛が必要なことも多々あった。その護衛のアフガン人2人が殺されるという一生忘れられない事件も起きた。それでも、新しい幕開けを迎えた故国に、基本的イ ンフラがほとんどない状況にもかかわらず、アフガン難民があふれるように帰ってくるのを目の前にした時、難民の故国への強い思いを感じた。おおげさかもしれないが、アフガニスタンの新しい歴史の一幕を垣間見た思いだった。
UNHCRの仕事は楽ではない。その一方で、私がこの仕事を通 して学んできたものは、人と人とのつながりや人の尊さである。活動の環境が厳しければ厳しい程、人とのつながりも密になり、学ぶことも多い。難民保護は、一方的な慈善事業ではなく、相互を尊重する精神に基づいた人間の平和的な共存の営みである。
注:各国政府が給与などの費用を負担して、国連職員をめざす35歳以下の若者に国際機関での職務経験を提供するというもの。日本では、外務省国際機関人事センターがこの事業を実施している。