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アフガニスタン:新たな危機
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ジュネーブ本部のアフガニスタン情報

 ひとめでわかるアフガニスタン情報
タラキに率いられた都市部の知識人が、1978年4月に権力を掌握、共産党国家を確立しようとした。数カ月もしないうちに、アフガン難民が隣国のパキスタンやイランへと流出する。

パキスタンは1979年4月、UNHCRに公式に支援を要請。難民援助のための資金が1500万米ドル集まった後、10月にUNHCRパキスタン事務所が開設された。

1979年12月にソ連軍がアフガニスタンへ侵攻すると、難民の数は60万人に膨れ上がった。

1989年にソ連軍が撤退した後も派閥間の内戦が続いたため、避難する市民が1990年代に急増、アフガニスタンは世界で最も深刻な難民問題を抱える国となった。1990年までに国を追われた市民の数は、630万人、そのうち推定330万人がパキスタンへ、300万人がイランへ向かった。

緊急事態に対応するため、UNHCRは援助を強化する。1979年には440万米ドルだった援助額は、1991年にはパキスタンだけで1億900万ドルになった。イランへの援助資金は、比較的低額だったが、これは国際的な政治問題と、イラン政府が援助を受けることに対し消極的だったためである。

生活条件もパキスタンとイランでは大きく違っていた。パキスタンでは、主にパシュトゥン系の難民がUNHCRが設置した300以上の村で生活している。イランでは難民の多くが地域社会で生活し、仕事も見つけている。

UNHCRはパキスタンで世界最大の教育プログラムを実施しており、UNHCRが設立した学校で多くの少年が学んでいる(少女は少数)。イランでは難民の子どもたちは地元の学校に登録をしており、少女も教育を受けやすくなっている。

紛争が20年以上も続いたため、資金提供者の関心が薄れ、寄付金の額は大幅に低下した。しかし、UNHCRはアフガン難民のため、アメリカ主導のアフガニスタン軍事攻撃が起こるまでに、少なくとも12億米ドルをパキスタンでの難民支援活動に、3億5200万米ドルをイランでの活動に、そして7200万米ドルをアフガニスタン国内での活動に拠出している。
一部の地域で内戦が繰り返される一方で、多くの難民がアフガニスタンの安全な地域へ帰還。1992年には120万人以上の人がパキスタンから故郷へ戻った。1988年から2001年までに合計460万人以上が帰還した。

21世紀に入ると、記録的な干ばつが、既にぎりぎりの生活を送っていた何百万人もの人々を直撃し、問題を悪化させた。

アメリカで2001年9月11日に発生した同時多発テロ事件の後、UNHCRは15カ月間の難民支援活動のために必要な2億7100万米ドルを要請。パキスタンへ20万人以上の難民が新たに流入したことを受けて、UNHCRは新たに15ヵ所の難民キャンプを設置した。

2001年11月にタリバン政権が崩壊、カブールに暫定機構が成立したことで、多くの難民が自主的に帰国を始めた。UNHCRと暫定機構は、2002年にパキスタン、イラン、中央アジア諸国から合計80万人の難民と、約40万人の国内避難民の帰還支援を計画するが、帰還の規模は予想を超えてしまう。

2002年3月に始まったUNHCRと暫定機構の帰還計画は、開始から5カ月も経たないうちに、130万人以上の帰還を支援した。また、2002年半ばまでに約70万人の国内避難民が帰還したが、そのうち20万人がUNHCRや国際移住機関(IOM)などの支援を受けた。UNHCRは2002年の帰還数の推定を、120万人から200万人に上方修正した。

アフガニスタンの問題は今なお深刻である。一部の地域は地雷や不発弾という不安材料を抱えており、長引く干ばつが、農民や家畜所有者の生活を破壊している。

アフガニスタンの抱える問題を難民は認識しているが、その多くは破壊された故郷から届くニュースにもめげてはいない。そして前例のない早さで難民の帰還は続いている。

アフガン難民の帰還にはまだ時間がかかる。そして社会の再建にはもっと長い時間がかかる。国外にいる200万人以上の難民や、故郷を離れて暮らす多くの避難民のために、長期的な帰還や開発を続けていかなければならない。